シャボテン幻想 (ちくま学芸文庫)

はじめに昭和初期にモダンガール小説作家の第一人者であった龍膽寺雄は、戦後はシャボテン学、植物学の第一人者と化し、どのモダン小説作家よりも長生きし、８０歳代半ばで、未発表作を含む全１２巻の立派な個人全集（実質は選集）を出すという幸運に恵まれ、八人の孫にも恵まれ、９１歳で亡くなっている。しかし、これまで、文庫本は一冊も存在しなかった。本書はモダンガール小説の復刊ではなく、戦後のシャボテン随筆の復刊ではあるが、貴重なる文庫版龍膽寺雄本の刊行である。本書の原書は昭和４９年に出ており、全集にはなぜか、各章がばらばらにされて収録されていた。また、全集にはこのほかに「焼夷弾を浴びたシャボテン」というすごい随筆（空襲後、敗戦前、敗戦後の東京横浜のシャボテン名所の探訪記）が載っていたが、残念ながら今回は収録されなかった。追加龍膽寺雄は慶応大学医学部に５年間在籍後中退し、その翌年の昭和３年の「改造」の記念懸賞小説に応募し、「放浪時代」が一等となって（賞金１５００円。現代では数百万円）、文壇デビューし、またたくまに人気作家となって書きまくり、「アパートの女たちと僕と」、「魔子」、「黄燐とカクテル」等のモダンガール小説の名作を残したが、昭和９年に文壇（作家と出版社）内情暴露告発小説「Ｍ．子への遺書」を発表してしまい、作家的自殺を遂げた。戦後は、全盛期とは比べ物にならないマイナーな存在の作家（すみません）として、お色気風味の小説随筆を発表する一方、上述のごとく、シャボテン学、植物学の権威として、尊敬される存在となった。戦前戦後の主要な創作は「全集」に収録されているが、収録されなかった作品も多い。全集最終配本の第１２巻のアンケートはがきには、追加全６巻の刊行企画が記されていたが、これは未刊に終わった。また、略歴には、三千枚の長編「終幕のベル」を執筆中とも書かれていたが、これもどうなったかわからない。本書の私的感想●私は植物学にはほとんど関心がなく、現実のシャボテンには全く関心がない。その点は、本書を読んでも、変わらなかった。●しかし、本書はたいへん面白かった。何が面白いかというと、これはシャボテンについて書かれた本でありながら、所々、作家龍膽寺雄の情念が噴出するのである。それが面白い。●その情念がなにか、どこに向かっているのかの解釈は、読者の読み方により異なると思うが、私には、作者が戦後も比較的めぐまれた状況（むろん、自己努力も大きい）にありながら、至福の人気作家時代に向かう強い喪失感が残存し、その喪失感を中和し、相対化すべく、シャボテンに関する随想を展開しているように思える。（すみません）●こういうことを書くと、龍膽寺雄ファンのお叱りを受けるかもしれないが、デビューから６年間に書かれた龍膽寺雄のモダンガール小説には、光輝く「異なる何か」があったように思う。それに比べると、戦後の小説はそれなりに面白くとも、「異なる何か」は消えてしまったように思う。しかし、本書には、読者を感動させる「異なる何か」がある。その意味で、本書は戦後の龍膽寺雄の代表作である。追加龍膽寺雄のモダンガール小説は、あくまで男性視点に立つものなので、今日復刊されても、尾崎翠（男性にも女性にも好まれる）のように、爆発的な支持を得ることは難しいと思う。しかし、ぜひ文庫本として、復刊してほしい。